シューマンの指(奥泉 光)

シューマンの文学的音楽、そしてその生き方が、現代を生きる若者を導く。その先にあるものは光なのか闇なのか。

里橋優の元に、鹿内堅一郎から驚くべき手紙が届いた。かつて天才と呼ばれたピアニスト・永嶺修人が、失ったはずの指を克服してピアノを演奏したというのである。里橋はそんなはずはないと思いながら、ある事件に至る過去を回想していく。そこには常にシューマンの音楽が存った。鳴っていたというより、まさに音楽が存在していたのである。

私は音楽の素人なので、素養のある人が読めば異なる感想を得るかもしれない。しかし、シューマンの曲が演奏者に求めることの難解さが伝わって来たのとあわせて、その曲たちをどのように解釈して文学的に表現していくのかという面白さが多分に感じられた。特に中盤から後半はこの本の世界観にどっぷり漬かって一気に読み切るほかなかった。

読み終えたのちの虚しさや切なさ、あるいはどこかに一筋の陽光もあり、言葉だけではとても伝えきれない複雑な感情が残った。この物語とシューマンの人生はまったく別なものでありながら、同じ瞬間に不自然さを感じさせず演奏されているようであった。

この本はまたいずれ読み返したい一冊である。

個人的おすすめ度 5.0

ランチのアッコちゃん(柚木 麻子)

痛快すぎる4つの短編には、いずれも今を生きる素敵な女性たちが登場する。彼女たちには、踏まれても踏まれても何度でも起き上がる強さがある。

「ランチのアッコちゃん」「夜食のアッコちゃん」は連作で、派遣社員の主人公と、先輩であるアッコさんが奮闘するのだが、アッコ先輩のカッコよさはこの上ない。昔を知る人が梶芽衣子バリだと表現するのだが、まさにそんなイメージである。そして、その傍で主人公が劇的に成長していく姿にワクワクする。

「夜の大捜査先生」では、三十路となった主人公が、高校時代の先生と出会い、渋谷を走り回ることになるのだが、そのドタバタの中で自分自身の立ち位置を確認していく物語である。後半にさりげなくアッコさんが出てくるところでは、ついほくそ笑んでしまった。

最も心に響いたのが最後の「ゆとりのビアガーデン」。これは男性こそ心にグサリと刺さるストーリーだと思うが、ダメ社員だった主人公が前向きに頑張っていく物語だ。読み終えたときには主人公の言葉を何度も反芻したくなった。

ちなみに、特に前半二編は食べ物の描写が食欲を掻き立てるので、夜に読むときは要注意(笑)。何か食べながら読むとちょうどいいかもしれない。心も体も栄養満点のビタミンで満たされる一冊であった。

個人的おすすめ度 4.5

デッドエンドの思い出(よしもと ばなな)

五編の短編はどれも切ないが、決して後味は悪くない。それぞれの主人公が切なさを乗り越えて、あるいは切なさを抱いたままでも、前に踏み出していく瞬間が描かれているからである。

最期に収録された表題作は、主人公の喪失感や心の痛み、そしてそれが癒されていく過程が丁寧に描かれていて、読んでいてじわじわと心に染みてくる。ほかの短編の中にも人との別れがあったり、自分でも気づかない心の傷ができていたりする。

幸せは当たり前に消費されるものではなく、かといって求めて努力しても手に入らないこともある。そうしたことを経験したり知ったりすることで、人は幸せの価値に気づくのかもしれない。

読了後、淡い色合いの切なさが胸に残る。それは素敵な思い出として人生に刻んでおきたい一頁である。

個人的おすすめ度 3.5

猫鳴り(沼田 まほかる)

中年夫婦のもとにやってきた仔猫。流産で子を亡くしたばかりの夫婦は猫を捨てに行く前半、その描写は生々しく残酷にも思える。しかし、命を安易に扱わないという観点では、無責任に餌付けしたりすることよりも現実的な選択に思える。捨てに行っても帰ってきてしまう猫、そしてある少女の来訪により、夫婦は猫を飼うことにする。

第一章は夫婦と猫が暮らし始めるところを描き、第二章では登場人物が変わって父子家庭の少年と猫、そして少女の関係性を描いていく。そして第三章では猫の最期が描かれるのだが、それぞれにおいて人間の心理描写が見事だ。加えて猫を決して擬人化せず、人間から見たリアルな猫の様子も素晴らしい。以前うちにいた猫や今一緒に暮らしている猫のことと重ねて頷くしかなかった。

全ての命あるものは等しく死を迎えると頭では理解できても、心がそれを受け入れるには時間が必要なときもある。いつもあったはずの声が聞こえなくなるとき、そして猫のゴロゴロという猫鳴りが聞こえなくなるとき、そこにはブラックホールのような心の虚無が広がっているかもしれない。しかし、私たちはそれを自然なこととして生きていくしかないのだろう。

個人的おすすめ度 3.5

想像ラジオ(いとう せいこう)

想ー像ーラジオー。

番組の高らかなジングルが想像という電波に乗って聞こえてくる。

杉の木のてっぺんから放送を始めることにしたDJアークは、自分の家族の話をしながら、たくさんのリスナーの声を届け、そして素敵な音楽を流す。その彼の目的は……。

東日本大震災で、たくさんの命が失われた。亡くなった人がどんな思いでいるのか、そのことを想像するのは意味のないことだろうか。この世界は、生きている者のためだけにあるのだろうか。

「生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ。」という言葉にふと気づく。そして、「亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」という言葉に共感する。

想像ラジオは、聞こえる人と聞こえない人がいる。だから、できることなら私はそれが聞こえる人間でありたいと思う。

DJアークがその目的を果たした時、想像ラジオはどうなるのか。それはぜひこの本を読んで確かめてほしい。

個人的おすすめ度 3.5

ユリゴコロ(沼田 まほかる)

押し入れに隠されていた4冊のノートには、繰り返される殺人の告白が生々しく書き綴られていた。それを書いたのは母なのか、それとも父なのか、あるいは別の人物なのか。そしてそれは事実なのか、創作なのか。

単純なサイコパスのような猟奇的な物語なのかと思って読み始めたが、予想に反してまったく異なる読後感となった本書。何者かの独白に書かれる「ユリゴコロ」だが、主人公、父、母、弟など、一人一人の心が振れる様こそまさに「ユリゴコロ」ではないかと思う。

おぞましさと美しさが表裏一体となる瞬間、手首から流れる真っ赤な血は、残酷な死を想像させながら、人間の温かさをも感じさせる。命の始まりと終わりは、物質にとっては単なる過程かもしれない。しかし、人間は始まりと終わりの中で愛を感じるのだ。

読了したときに感じる温かさが、私にも確かに人間としての血が流れていることを実感させてくれた。

個人的おすすめ度 5.0

老警(古野 まほろ)

警察をはじめとする公務員組織の理不尽さ、引き籠りとその家族に対する社会のあり様、それらへの問題提起も含めた社会派ミステリーである。しかし、この結末に胃が痛くなった私は、ひ弱な人間なのだろうか。

引き籠りの子供のために出世レースから外れた父親。小さな町では、一度レッテルを張られた人間は大手を振っては生きてゆけない。家庭崩壊の現実に直面した父子がたどり着いたのは、取り返しのつかない惨劇であった。

辛い話ではあるが、この物語にはまだ救いがある。刑務部長がその事実を暴き、我々に伝えいるからである。しかし、きっと社会には誰にも知られない本当の不幸が渦巻いているのだろうと想像する。その中には、避けられた不幸もたくさんあることだろう。

本当に地獄に落ちるべきは誰なのだろう。目を背けずに読んでほしい一冊である。

個人的おすすめ度 3.5

1ミリの後悔もない、はずがない(一木 けい)

生きていく中で、あのときもし違った選択をしていたら、と思うことはたくさんある。それは今が幸せだったとしても考えてしまうことだ。この物語の登場人物たちのように、重要な決断をする瞬間の痛みがあったり、知らなかった事実を知って「もし」を考えずにいられなくなったり、しかしそれぞれの物語はどこかで読者としての自分自身にも重なっていく部分がある。

五つの物語はそれぞれが重なり合っている。その接点を読みながら、書かれていない心の移ろいや物語を想像する。誰かひとりが別の選択をしていたら、すべての物語は書き換わっていただろうと思う。それを考えることが無意味だという人もいるけれど、考えずにはいられない。

他愛のない若葉のような恋愛もあれば、大人の事情の男女の付き合いもある。親からもらえなかった愛もあれば、永遠と思える愛もある。それぞれ描かれた恋や愛は、他人がとやかく言うものでもない。ただ、それを読んで、何かを感じるだけだ。

読了後、「1ミリの後悔もない、はずがない」というタイトルが腑に落ちた。

個人的おすすめ度 3.5

木曜日にはココアを(青山 美智子)

東京とシドニーを舞台にした十二の短編は、老若男女様々な主人公が幸せなひと時を感じさせてくれる。

カフェの青年、いつも手紙を書く常連の女性、そして二人をつなぐ温かいココアの香りが伝わってくる。偶然そこに座っていたお客さんのこと、手紙の先に繋がる人のこと、ほかの人が飲むココアを見た人のこと、少しずつ重なる人生の集大成で世界はできている。

それぞれの物語の中には、幸せに気づくための瞬間が用意されている。どの瞬間が自分の心を弾いてくれるのかは読む人によるだろう。何気なく読んできて、最後の最後で私の心に一本の矢が刺さった。こういう素敵な気分を味わうために小説を読んでいるんだなとしみじみと思う。

明日の朝は、私もカフェでココアを飲もうかな。

個人的おすすめ度 3.5

ウツボカズラの甘い息(柚月 裕子)

ウツボカズラというのは食虫植物である。甘美な臭いで虫を誘い込み、それを養分として生きている。持病を抱えながら日常に追われる主婦・高村文絵は、まさに恰好の餌食だったのか。

偶然再会した中学生時代の同級生・加奈子は、怪しさを放ちながらも、美と金という魅力的な餌をぶら下げている。抗いがたい人間の欲望は、やがて自分の行動を正当化することで心の均衡を図ろうとする。もし自分自身がその立場だったとしても、そこから逃れることができたかどうかわからない。

殺人事件が起き、加奈子との連絡が付かなくなり、文江は窮地に立たされる。それは自分で蒔いた種かもしれないが、同情を禁じ得ない背景もある。罪悪感の伴わない悪意がどのように育てられていくのか──そこには驚きの結末があった。

個人的おすすめ度 4.0