キツネ目 グリコ森永事件全真相(岩瀬 達哉)

かつて世間を混乱に陥れたグリコ森永事件──未解決事件の真実を追ったドキュメントである。なぜ犯人は捕まらなかったのか。脅迫された会社、警察、マスコミなど、それぞれがどのような行動をしたのか。そのことから見えるのは、単なる事件の事実ではなく、社会構造の問題点でもあった。

事件の概要は知っていたが、それはあくまで昔のニュースや番組で見たというレベルだった。しかし、本作品を読むと、事件に直接関連した人々の姿が浮かび上がるだけでなく、犯人像すら見えてくる気がする。事件が時効になったのち、取材に応じた人々、あるいは取材を拒否した人々、それぞれの心には死ぬまで忘れることができない思いがあったことと想像する。

第三者的な立場で眺めるだけなら、ひとつひとつの出来事を追って、逮捕のチャンスを逃した警察を批判したり、闇取引に応じた可能性のある企業を問題視するのは簡単だ。しかし、それこそは犯人が望んだものではないかと思う。そして、人々を愚弄した犯人はまだこの社会で生きていることだろう。

事実は小説より奇なりとはまさにこのことである。全体の構成もよく、納得して読むことができた一冊だった。

個人的おすすめ度 3.5

分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議(河合 香織)

コロナウイルス対策の初期、2020年の1月から6月頃までに、専門家会議は何を目指し、どんな活動をしていったのか。また、その周辺環境、特に政府や各行政機関などの動きはどのようなものだったのかを追ったドキュメントである。

誰もが人的被害を最小限に抑えたいと願う一方、誰も正解がわからない中で意見を求められた専門家たち。実際にどうするかという決断は政治が行うことだが、いつの間にかその決定の責任まで負わされているかのようになっていく専門家会議。そして、縦割りからなかなか脱することができない行政、問題をうまく伝えられないマスコミ、それらすべてが日本社会の大きな歪となっていることが、このコロナ問題で表面化してきたように思う。

この作品で描かれたのは2020年6月までだが、その後も本質的な問題は何も解決されていないのだろう。緊急事態と言いながら、その対応の緩慢さであったり、いつまでもそれぞれの立場に固執したり、場当たり的にも見える政策が優先されたり、あるいはメディアも何ら役立つ情報を発信できないままでいる。それでも、最前線で奮闘している一部医療機関の人々や、個々人のモラルによって、なんとか最悪の事態は免れてきたのかもしれない。

コロナが収束したとき、過去を振り返ってきちんと総括し、抜本的に危機管理体制を見直さなければ、いずれ来る危機にもまた同じような問題にぶつかるのだろうと思う。そうならないために、これからどうなるかという受け身的思考ではなく、どういう社会にしていきたいか、そのために何をすべきかを考えていかなくてはと強く感じた。

個人的おすすめ度 3.5

汚れなき子(ロミー・ハウスマン)

交通事故で病院に搬送された女性は、ある男によって少女たちとともに監禁されていた。ハナという少女によると、事故にあったのは彼女の母親レナだという。その名前から、レナは十年以上前に行方不明になっていた女性の可能性があり、その両親である老夫婦が病院へかけた。しかし、それは幸せな再開ではなかった。謎だらけの物語はここから始まる。

監禁されていた女、少女、そして駆け付けた夫婦の夫、この三人の視点から事態の全容が少しずつ明らかになっていくのだが、精神的に辛くなるシーンが多く、人間の怖ろしさを感じずにはいられなかった。何より、その恐さの根源の中に、少なからず理解できてしまう、あるいは共感さえしてしまう部分があるために、読者である自分自身の怖い部分にも気づいてしまうのである。

優れた人物描写、そして目まぐるしく変わっていく展開、どこをとっても素晴らしい作品だが、これが著者のデビュー作というからさらに驚きである。この著者の作品をもっと読みたくなる。ミステリーとしても、サスペンスとしても、あるいはヒューマンドラマとしても評価できる良作だった。

個人的おすすめ度 4.5

あの夏の正解(早見 和真)

甲子園を目指す高校球児たちは、コロナによる甲子園の中止に直面して何を感じ、何を考えたのか。指導者は生徒たちを前に何を考えたのか。この夏の出来事が、あの夏の出来事へと変わっていく中で、彼らは何を失い、何を得たのか。

自らも高校球児だった著者が、愛媛の済美高校と石川の清涼高校の二校で、それぞれ甲子園を目指していた球児とその指導者たちの姿を取材したドキュメント作品は、きっと多くの人の共感を呼ぶ物語でもあった。誰も経験したことがない経験を乗り越えた先に希望が見えるのか、その手がかりを得るためにもぜひこの本を読んでみてほしい。

中途半端に生きていれば、失うものもない代わりに、得るものも小さいだろう。一生懸命に生きているからこそ、壁にぶつかったときの痛みは大きいかもしれないが、あの夏のことを振り返ったときにそれが人生の糧となることを願いたい。甲子園を目指す彼らの有り様は、一生懸命頑張っているすべての人へのエールにも感じられた。

個人的おすすめ度 4.0

兇人邸の殺人(今村 昌弘)

シリーズ第三弾の本格ミステリー。謎解きの面白さを味わいつつ、これは物語であり、エンターテインメントだと理解しながらも、物語に引きずり込まれるような面白さがあった。ファンタジー映画を見ているような感覚もあり、個人的にシリーズの中で一番好きな作品となった。

毎回、クローズド・サークルの謎解きが展開されるシリーズで、今回も期待通りの展開が待っていた。大学のミステリ愛好会会長である葉村譲は、今回もまた剣崎比留子とともに事件の只中に入っていく。そこは廃墟を売りにしたテーマパークで、班目機関と関連した研究が行われているという。その研究成果を求める集団とともに、葉村と剣崎はテーマパーク内の兇人邸と呼ばれる建物へと侵入するのだが、そこには驚くべき殺人鬼が住んでいた。

殺人事件もののミステリーは、物理的な部分の謎解きとともに、なぜ人が殺されるのかという動機への共感度合も大切な要素だと思う。このシリーズは毎回奇想天外な設定でありながら、なるほどと思わせる動機の設定も見どころである。

ラストシーンを読む限り、まだまだ続いていくのだろうと期待させてくれるシリーズである。自作も待ち遠しい。

個人的おすすめ度 4.0

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場(河野 啓)

「七大陸最高峰 単独無酸素登頂」を目指し、最後の山であるエベレストに挑戦して亡くなった登山家・栗城史多。山のことを知らない人間が見れば、単純に凄い挑戦をしている登山家だと理解するだろう。しかし、それは彼を単なるエンターテイナーとして眺めたときの、ほんの表層に過ぎなかった。

エベレストへの挑戦が何度も阻まれる中で、初期には彼を応援する声ばかりだったものがやがて批判に変わり、さらには関心すら薄れていってしまう。それでも彼は挑戦することを止めず、両手の指を九本も失いながら、過酷なルートへの挑戦を宣言した。結果として命を失った彼が描いていた世界はどのようなものだったのだろう。

彼を見る著者の距離感は、遠すぎず、かといって近すぎることもなく、だからこそ見えた部分があるように感じる。近くにいなければわからない面はもちろんあるとしても、単に称賛したり批判するのではなく、栗城史多という人間を理解したいという姿勢が文章の端々から感じられた。

亡くなった者が何を考えていたのか、その正解を確かめることはできない。それでもなお、もし彼が生きていてら、どんな挑戦をしていただろうかと考えてしまう。人に何かを期待させる栗城という人の魅力が、そこにあるのだろうと理解した。

個人的おすすめ度 3.5

血の轍(相場 英雄)

警察組織の中で対立する刑事と公安。大きな事件に直面してもなお、その対立は収まることがなく、社会の秩序と安全を維持するという本来の目的よりも、自分たちの組織を守ることが優先してしまう。正義感溢れる人間も、その中に入ればやがてそのしがらみから抜け出すことができなくなっていく。

かつて同じ組織にいた二人の男は、刑事と公安という立場になり、ある事件をきっかけに深いわだかまりを抱えるようになる。その背景に、妻や子を愛し守るという個人の幸せよりも、組織の正義が優先される警察という権力があった。そうした組織にとって、二人のような存在はとても「優秀な人材」だったのだろう。

前半は元刑事が殺された謎を追う展開だが、中盤以降は事件の謎よりも警察組織の深い闇を追求していくような物語構成がとても面白く、物語の中に前のめりで入り込んで没頭してしまった。どこまで読んでも理不尽さばかりを感じるが、ラストシーンに僅かばかりの希望を感じた。良作である。

個人的おすすめ度 4.0

ゼロエフ(古川 日出男)

福島で生まれた著者が、故郷のこと、東日本大震災や災害のことやその被害者のことに向き合ったドキュメント作品。原発事故をどう考えるのかということもあるが、福島=原発事故ではなく、自身や津波で失われた命があり、それ以前にも、それ以降にも度重なる災害で失われた命もあった。それらはメディアで報じられることもなく、本当に現地を歩き、気づく努力をしなければ、永遠に人々の記憶からも失われてしまうかもしれない。

また、国は政府であり、国家は私たちが属する家と定義してみて、国が「国民の皆様」と言った時に果たして表面に見えてこない人々は「国民」に含まれているのだろうかという疑問がある。そして、この国には果たして国民全員が属する「家」、つまり国家と呼べるものがあるのだろうかという問題を投げかける。

表層だけを眺めて、さも知った気になっている場所──その象徴が福島という場所かもしれない。また、福島と接する宮城だったり、あるいは福島の中でも様々な場所によって、一括りにすることができない場所や物事を、乱暴にまとめてしまっていることもあるように思う。

決して読みやすい文章ではないが、著者の内面から沸き起こるような感情が伝わってくる。ただ原発が悪いとか、原発がなければよかったといった見方ではなく、より深く社会の在り方を考える一助となる作品である。タイトルとなっているゼロエフ(0f)という言葉の意味も噛みしめたい。

個人的おすすめ度 3.5

白光(朝井 まかて)

日本人女性として最初のイコン画家となった山下りんの物語。明治初期、絵師を目指すために茨城から江戸へ出たりんは、西洋画と出会い、その道を目指しはじめる。そして、絵を共に学ぶ仲間から、ロシヤ正教の教会へ来れば西洋画を見ることができると誘われ、信仰のためではなく絵のために教会へ通い始める。

やがてりんはロシアへ渡り、ロシヤ正教の考え方や、イコン(聖像画)の在り方や歴史などを学んでいく。私自身は、東方正教会(ロシヤ正教)についてほとんど理解がないまま読み始めので、りんがそのことを学んでいく過程で一緒に学ばせてもらったように感じた。

明治という時代は、西洋に追いつくべく急速に社会が変化していった時期だと想像している。信仰の自由が認められる一方、日露戦争ともなればロシヤ正教は敵だと見なされた時期もあったに違いない。また、歪んだ国粋主義を唱える者にとって、西洋画そのものへの批判に晒された時期もあったかもしれない。

りんが幸運だったのは、家族の理解や人との出会いに恵まれたことにもあるだろう。その環境を存分に生かし、社会に恩返しをしようとしたりんという人の生き方はとても素敵だ。そして、彼女をもっとも理解し、大きな影響を与えた人物は、真の聖職者と言えるニコライ主教であったのではないかと思う。

お茶の水のニコライ堂からは時に美しい鐘の音が聞こえてくる。この作品を読んだ後は、あの音が今までとは異なるものに聞こえてくるだろう。そして、イコンは何のために描かれるのかということについても、考えを改めさせられる作品だった。不意に涙を誘われるシーンもありつつ、学びの多い一冊である。

個人的おすすめ度 4.0

貝に続く場所にて(石沢 麻依)

東日本大震災で津波にさらわれて行方不明になった知人が、ドイツのゲッティンゲンに現れる。そこで流れる淡々とした時間──そう、時間である。同じ場所にいても、過去を生きた人やそこにあったものと、今生きていてここにあるものは、重なり合うことがないように思える。しかし、それが重なり合うとしたら、どんなことを感じるだろう。

異なる時間軸が交差する世界を自然に受け入れたら、こんな風に生きていけるのだろうか。それは頭の中ではいつも整合性をもって起きていることなのだろうか。それぞれの人生が目に見えない糸でつながっていて「今」を紡いでいる。

じっくりと読む文学というものの面白さを感じさせる芥川賞受賞作である。

個人的おすすめ度 3.5