路(吉田 修一)

台湾に日本の新幹線を導入する大きなプロジェクトが始動する。商社に勤務する多田春香は、そこに携わるために現地で活動を始めるのだが、彼女の台湾への思いは特別なものがあった。かつて、台湾へ行ったときに出会ったエリックという男性の記憶であった。

物語は、新幹線事業の進捗と並行して、人々の出会いと人生(路)が描かれていく。春香だけでなく、日本で働く台湾人建築家・劉人豪、台湾の高尾に住む若者・陳威志、台湾生まれの日本人・葉山勝一郎、さらには春香の先輩社員・安西誠らが、それぞれに訪れる素晴らしい出会いが人生を彩っていく。

人の活力を感じる台湾の描写は、その匂いさえ伝わってきそうなほどの臨場感がある。登場人物たちの喜怒哀楽も、まるで表情が見えるかのように命を感じる。小説を読んでいることさえ忘れ、物語の世界に入り込んでしまった。

台湾と日本の人々の心をつなぐ新幹線。その路が素晴らしい未来へつながっていくことを願う。

個人的おすすめ度 4.0

最低。(紗倉 まな)

四つの短編は、それぞれが女性たちの物語。母や姉との相いれない生き方の違いを描いた1章、仕事としてAV女優をしながら、AV会社を経営する彼を支える2章、セックスレスとなった夫との関係に不満を感じながらAVに出演する3章、そして母や祖母、そして顔も知らない父との関係を描いた4章。

切なさや哀しさ、その中で感じる幸せが、文字からも行間からも溢れてくる。後書きにはこの作品を書くに至った著者自身のことも書かれていて、そこまで含めて一つの作品である。

読み終えると、ちょっと冷めかけた紅茶を飲んだときのような、美味しいけれど完全には満たされない不完全な心地よさが残る。すぐには消化しきれないからこそ、この感覚は心に留まり続けるのかもしれない。

全編を通じてアダルトビデオがキーワードになっているが、この作品には裸の人間の生々しさはあっても、下心のようないやらしさはまったくない。むしろ人としての潔さや美しさがある。主人公たちを素直に応援したいと思えた一冊だった。

個人的おすすめ度 3.5

サスツルギの亡霊(神山 裕右)

南極で死んだはずの兄から手紙が届いた。カメラマンの矢島拓海は、導かれるように真相を求めて南極へと旅立つ。そこで待ち受けていた兄の真実、そして次々と起こる事件。

南極という場所の厳しさや、ある意味で密室となる地域での人間関係、そして主人公と兄の歯がゆい関係、それらが臨場感を伴って伝わってくる。まるで映画を見ているかのように映像が浮かび、手に汗握る展開が頁を捲らせる。

そして、私は次の表現に心を打たれた。
「この氷の世界は、人が生きていくのに必要な物があまりにも足りない。(中略)ここには必要のない人間は存在しないのだ。それぞれが自分の専門知識を生かして助け合い、必要不可欠な戦力として誰からも認められている。それだけ責任も大きいが、頼りにされているという充足感はある。」
これこそは、多くの人が求めているもの、つまり生きる理由ではないかと思う。

兄が求めていたもの、そして主人公が求めていたもの──事件の真相の先に主人公がたどり着いた境地こそ、彼らがずっと求めていたものだったのかもしれない。

個人的おすすめ度 4.0

ららら科學の子(矢作 俊彦)

中国に密航して三十年後、日本に帰ってきた男は、失われた時間を取り戻すかのように日々を過ごす。かつての友、そして家族はどうしているのか、家はどうなったのか、そして日本はどのように変わり、世界はどのように変わったのか。

彼は自分のことを、玉手箱を持たずに竜宮城から帰ってきた浦島太郎と表現する。確かに帰国してからの彼は、どこかノスタルジーを求めながらも、現実との折り合いがつかずにいるように見えた。しかし、物語がラストに近づくにつれて現実を受け入れ始めた男は、自分が帰国したのはなぜかを問い、そして過去ではなく未来へ向かって歩み始める。

表題になっている「ららら科學の子」は鉄腕アトムの歌である。鉄腕アトムの世界観はとても深く、そこには人間とは何かという哲学が横わたっている。男はそのことを今の社会と重ねて考えていくのだが、アトムの世界の問題はロボットの問題ではなく、人間そのものの問題であるということが改めて感じられる。

淡々と進んでいく物語だが、読み終えたときに懐かしさのような不思議な余韻が残る一冊である。

個人的おすすめ度 3.5

ルパンの娘(横関 大)

伝説のスリ師の孫娘・華が恋をしたのは警察一家の長男だった。スリ師一家は祖父母、父母、そして兄もが盗みのプロフェッショナルだが、華だけは普通の仕事をして暮らしている。恋人の和馬は公務員であると聞いていたが、ある日、家族に紹介されることになり、警察一家であることがわかる。

そうした中、華の祖父が殺害されるという事件が発生する。その事件を担当することになる刑事としての和馬。ミステリーでありながら、二人の恋の行く末も描いていくエンターテインメントに、寝不足になりながらあっという間に一気読みした。

これが現実的にどうかというのは、この物語を読むにあたっては考える意味がない。とにかくこの世界観にどっぷり浸かり、ルパンの娘を応援していくと、やがて自分もその家族の一員になれた気がしてくる。ラストシーンのさらに先にあるサプライズに、もう拍手するしかなかった。

すべての謎が解明したときの爽快感を味わえる一冊!

個人的おすすめ度 4.0

くちびるに歌を(中田 永一)

長崎の五島列島にある中学校の生徒たちの、合唱コンクールへ向けた青春のひと時を描いた作品は、読んでいる間だけ自分の年齢を忘れてその頃に戻ったような気持ちになれる清涼感溢れる一冊だった。

産休に入る音楽教師の代理で学校に来た柏木先生の魅力によって、突然男子部員が入部してきた合唱部。そこに楽しさを感じる生徒もいれば、対立する生徒もいて、男女混声合唱はなかなか形になっていかない。そして、柏木先生が生徒たちに与えた宿題は、十五年後の自分に手紙を書くことだった。未来の自分がどうなっているのか、それを想像しながら生徒たちは成長していく。

主人公の一人であるサトルは、人とのコミュニケーションが苦手であるのに、成り行きで合唱団に入ることになってしまうのだが、彼の変化は読んでいて本当に気持ちがいい。一方、もう一人の主人公ナズナは、ダメな父親への反発から男子が嫌いで、男子部員にも反対の姿勢を見せるのだが、彼女の頑なな心もやがて溶けていくことになる。

大会当日を迎えたクライマックスは、笑顔で泣けるような感動がある。十五年後、彼らは自分たちにどのような手紙を書くのだろう。五島列島から見える青空が本を置いた先に見えるような気がした。

個人的おすすめ度 3.5

シューマンの指(奥泉 光)

シューマンの文学的音楽、そしてその生き方が、現代を生きる若者を導く。その先にあるものは光なのか闇なのか。

里橋優の元に、鹿内堅一郎から驚くべき手紙が届いた。かつて天才と呼ばれたピアニスト・永嶺修人が、失ったはずの指を克服してピアノを演奏したというのである。里橋はそんなはずはないと思いながら、ある事件に至る過去を回想していく。そこには常にシューマンの音楽が存った。鳴っていたというより、まさに音楽が存在していたのである。

私は音楽の素人なので、素養のある人が読めば異なる感想を得るかもしれない。しかし、シューマンの曲が演奏者に求めることの難解さが伝わって来たのとあわせて、その曲たちをどのように解釈して文学的に表現していくのかという面白さが多分に感じられた。特に中盤から後半はこの本の世界観にどっぷり漬かって一気に読み切るほかなかった。

読み終えたのちの虚しさや切なさ、あるいはどこかに一筋の陽光もあり、言葉だけではとても伝えきれない複雑な感情が残った。この物語とシューマンの人生はまったく別なものでありながら、同じ瞬間に不自然さを感じさせず演奏されているようであった。

この本はまたいずれ読み返したい一冊である。

個人的おすすめ度 5.0

ランチのアッコちゃん(柚木 麻子)

痛快すぎる4つの短編には、いずれも今を生きる素敵な女性たちが登場する。彼女たちには、踏まれても踏まれても何度でも起き上がる強さがある。

「ランチのアッコちゃん」「夜食のアッコちゃん」は連作で、派遣社員の主人公と、先輩であるアッコさんが奮闘するのだが、アッコ先輩のカッコよさはこの上ない。昔を知る人が梶芽衣子バリだと表現するのだが、まさにそんなイメージである。そして、その傍で主人公が劇的に成長していく姿にワクワクする。

「夜の大捜査先生」では、三十路となった主人公が、高校時代の先生と出会い、渋谷を走り回ることになるのだが、そのドタバタの中で自分自身の立ち位置を確認していく物語である。後半にさりげなくアッコさんが出てくるところでは、ついほくそ笑んでしまった。

最も心に響いたのが最後の「ゆとりのビアガーデン」。これは男性こそ心にグサリと刺さるストーリーだと思うが、ダメ社員だった主人公が前向きに頑張っていく物語だ。読み終えたときには主人公の言葉を何度も反芻したくなった。

ちなみに、特に前半二編は食べ物の描写が食欲を掻き立てるので、夜に読むときは要注意(笑)。何か食べながら読むとちょうどいいかもしれない。心も体も栄養満点のビタミンで満たされる一冊であった。

個人的おすすめ度 4.5

デッドエンドの思い出(よしもと ばなな)

五編の短編はどれも切ないが、決して後味は悪くない。それぞれの主人公が切なさを乗り越えて、あるいは切なさを抱いたままでも、前に踏み出していく瞬間が描かれているからである。

最期に収録された表題作は、主人公の喪失感や心の痛み、そしてそれが癒されていく過程が丁寧に描かれていて、読んでいてじわじわと心に染みてくる。ほかの短編の中にも人との別れがあったり、自分でも気づかない心の傷ができていたりする。

幸せは当たり前に消費されるものではなく、かといって求めて努力しても手に入らないこともある。そうしたことを経験したり知ったりすることで、人は幸せの価値に気づくのかもしれない。

読了後、淡い色合いの切なさが胸に残る。それは素敵な思い出として人生に刻んでおきたい一頁である。

個人的おすすめ度 3.5

猫鳴り(沼田 まほかる)

中年夫婦のもとにやってきた仔猫。流産で子を亡くしたばかりの夫婦は猫を捨てに行く前半、その描写は生々しく残酷にも思える。しかし、命を安易に扱わないという観点では、無責任に餌付けしたりすることよりも現実的な選択に思える。捨てに行っても帰ってきてしまう猫、そしてある少女の来訪により、夫婦は猫を飼うことにする。

第一章は夫婦と猫が暮らし始めるところを描き、第二章では登場人物が変わって父子家庭の少年と猫、そして少女の関係性を描いていく。そして第三章では猫の最期が描かれるのだが、それぞれにおいて人間の心理描写が見事だ。加えて猫を決して擬人化せず、人間から見たリアルな猫の様子も素晴らしい。以前うちにいた猫や今一緒に暮らしている猫のことと重ねて頷くしかなかった。

全ての命あるものは等しく死を迎えると頭では理解できても、心がそれを受け入れるには時間が必要なときもある。いつもあったはずの声が聞こえなくなるとき、そして猫のゴロゴロという猫鳴りが聞こえなくなるとき、そこにはブラックホールのような心の虚無が広がっているかもしれない。しかし、私たちはそれを自然なこととして生きていくしかないのだろう。

個人的おすすめ度 3.5